知恵蔵日記( ..)φ

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さびしいけど、自由。自分に忠実である、ということ。

 ビーガンになる、ということにわたしは全く抵抗がなく、むしろうれしいことだったので、多くの人がビーガンをためらったり、疑ったり、あるいは攻撃したりしている様を見て、ああ、わたしの在り方っていうのは、いつだってこうなんだよな、と諦め半分の気持ちと、なんで?っていう素朴な疑問の気持ちと半々で。

 まあ、でも、あっさりビーガンになれる場合とそうでない場合はある。わたしみたいに、もともと多くの人から「離れて」いて、ちょっと変な人、と思われている場合なら実践しやすいのかもしれない。そういう意味でわたしは恵まれているのかもしれない。

わたしの場合は「みんなとわいわいごはんが食べたい」っていう願望がもともとほとんどなくて、じぶん一人なら食べないで済ましてしまう、っていう場合も多くて、そういうのもビーガンには向いているな、と思う。わたしはじぶんの性質とか性格というものが、ほんとうにくっきりと見えてしまった。

 しかし、ビーガンメンズ総選挙の立候補者のプロフィールを読んでいると、実にいろいろ考えさせられる。さまざまなビーガンがいて、顔つきもちがうように、性格も雰囲気もみんなそれぞれ違う。考え方もいろいろある。ということは、やっぱり、ビーガンっていうのは向き不向きではなく、なるかならないか、なのかな、とも思う。

 

 動物性食品を食べる回数や量を減らしていく、っていう人が増えるのは、全体としては好ましいことなんだろうと思う。でも「食べている」「食べることができる」っていことは、その人にとって「食べ物」である、という認識なわけで、そこはビーガンであるわたしたちとは、異なる。「食べ物ではなくなる」「食べることができなくなる」「食べている自分に耐えられない」という感覚がわたしたちにはあり、だからビーガンなのであり、がまんしているのではない。食べたくないのだから。この感覚を持っているかどうか、なんだと思う。そしてその感覚を持つものは、圧倒的少数である。動物の権利を理解する人、畜産業の問題点を理解する人、世界の食糧事情を理解する人は増えてきただろう。でも、その「感覚」を持つかどうかはまた別のはなしなのだ、と分かった。

 身近に友だちと呼べる存在がいないことをさびしいと思うこともないではない。でもまあ、それも慣れれば別にかまわない。わたしには部屋があり、食べ物があり、着るものもあり、それ以上なにを望めばいいのだろう。それすらない人々、殺されるために生まれてくる動物たちのことを考えれば、友だちがいないことが、一体なんだというのだろう。

 さびしいけど、自由。自分に忠実である、ということ。でも、ビーガンが増えれば、違ってくるんだろうけども。