多くの人々は、DVのことを分かっていない。殴るけるだけでなく、金銭的なこと、性的なこと、相手の意見を尊重しない、相手の嫌がることをする、なども含まれる。
今週のお題「いま学んでみたいこと」
「○○なら●●の要求にこたえるべきだ」はどんな時にでも使われる、権力の理屈で、これを許せば際限なく自由が奪われる。子どもなら親の、妻なら夫の、生徒なら教師の… そうやって、人々はこの定理を内面化し、最も、身近な暴力とも言えるDVを許し、仕方ない、と認めてきた。
そして多くの人々は、DVのことを分かっていない。殴るけるだけでなく、金銭的なこと、性的なこと、相手の意見を尊重しない、相手の嫌がることをする、なども含まれる。そして、被害者のほうが「わたしが悪いんだ、いけないんだ」と責める構図に持っていく。
恋愛、ということばは、明治になって西洋から輸入され「LOVE」の訳語としてあてられた概念である。それまでなかったから、発明された、と言ってもいい。ベースボールを輸入したから、「野球」ということばを作ったのと同様である。それぐらい、最近の概念だろうと思う。
わたしは、日本に肉食、結婚、恋愛、球技などの西洋文明が入ってきたことが、悲劇の始まりだったのではないだろうか、と思う。いや、入って来るのはしかたないとして、無批判に受け入れ、賛美し、表面だけ真似したことがまずかっただろうと思う。
漱石の「こころ」などを読むと、恋愛という概念を、どれだけもてあましているかが分かる。苦しい小説である。この苦しみをこれからどうやって背負っていくのか、そのことをあの小説は表現している。肉体関係があろうがなかろうが、苦しいものだろうと思う、恋愛は。
だから、せめて恋愛を美化したり、なにか表面的に楽しんだりするのは、おかしいことだろうと思う。
わたしには恋愛は「落とし穴」のようなものにしか思えない。なるべく避けたい、と思っていても、どうしようもなくて、落ちて、先が見えない。そういうものだと思っている。実際そうではないだろうか。
だから大切な人とは友情で結ばれたい。恋愛はしなくていい。
肉を食べなくても生きていけるのとほんとうによく似ている。