リスペクトするっていうのは、コピーすることではなく、師の姿から、自分自身を見つけ出すこと。
お勧めすぎるマンガ、「昭和元禄落語心中」。八雲にくびったけのわたし。
リスペクトしながらも、超えていく、っていうことの難しさと大切さについて。
親鸞は法然を、枝雀は米朝を、TMNはYMOを、超えているんだけども、でも、そのリスペクト感っていうのがこちらにも伝わる。わたしはそういう「師弟関係」というものに、とても魅かれる。師がいいと、そういうことが起こる。育てる、ということがうまい人の中からは、魅力的な弟子が出てくる。
リスペクトするっていうのは、コピーすることではなく、そんなことではなく、師の姿から、自分自身を見つけ出すこと。そういうことだろうと思う。自分のオリジナリティを同時に出して、さらに進化(あるいは深化)させていく、そういうことだろうと思う。
おおざっぱな言い方をすると、男女間ではそれは難しいのかもしれない。米朝は女性の弟子を取らなかった。仏教もずっと男性のものであった。小室哲也氏を見ていてもそう思う。女性をプロデュースすると、女性が不幸になっていく。TMNが頂点のように思う。
ジェンダーに縛られる生き方はいやだと思う。しかし同時に、同性同士ならではの良さというのもすごく感じる。同年代の異性愛男女のカップル、というのが一番難しいんじゃないか、とよく思う。