文化とか伝統こそ、バージョンアップが必要である。ヴィーガンとは、そういうはなしだろうとわたしは思う。
アニマルライツ、動物の権利の運動では、人間がその加害性に気づき、生き方、考え方、言葉の使い方、動物たちへの接し方、食べ方、生活習慣を変えて行く運動であり、そのことを言い続けるしかない。なので、それは言うまでもないがとても大変なことである。
よくある反論のひとつに(反論は典型的でよく似ている)、「文化や伝統を否定するな」というものがある。これに対してわたしは書いておきたい。
わたしは日本人(とパスポートに書いてある)だが、捕鯨を文化と思ったことは一度もない。ただ残酷なだけだと思う。
わたしは日本人だから、スシを食べる機会は多かったが、しかし乱獲によりどんどん魚がいなくなること、魚だって生きており、捕られたくはないこと、放射能汚染によりもう食べるべきではないこと、などからスシを食べようとは全く思わないし、日本の文化だとも思わなくなった。
わたしは熊本人(住んでいる)だが、あの馬追い祭りは昔から大嫌いで、なくなればいいと思い続けてきた。同様にそういう人をたくさん知っている。
と同様に、フランス人でもフォアグラに反対する人、スペイン人でも闘牛を嫌がる人、アメリカ人でもマクドナルドに行かない人はたくさんいる。
文化、というものそれぐらいあいまいで、実態のないものだ。伝統だって同じようなものだろう。
なんでも検証され、ほんとうにいいものだけがきちんと残ればいいのだ。たとえばわたしは落語が好きだ。落語は日本で生まれたものだが、日本のものだけではない。桂枝雀は英語落語で世界中を回り、各国で喝さいを浴びている。日本人だけが落語を分かるというわけではない。大阪人でないわたしも上方落語が分かるのと同じである。いいものはそういうカテゴリーをどんどん超えて行く。
食べ物もそうだろう。ヴィーガンは世界中にいる。肉や魚の代替になる食品は豊富にあるので、いままでの技術や「文化」を否定せずとも、ヴィーガン料理に切り替えていくことは可能だ。ヴィーガンバーガー、ヴィーガンチーズなどもあるので、肉好きだってなんでも食べることができる。
文化というのはただ同じものをやり続ければいいということではない。時代に合わせてバージョンアップしていくものだろうと思う。食文化こそ、そうであるべきなのだ。
世界規模、地球規模で見て、もう「肉」を食べるべきでないのは明らかなのだから。
桂枝雀の古典落語が今聴いても面白いのは、古典落語がすごいのではなく、枝雀の努力、時代を読みとる力がすごかったのだ。文化とか伝統こそ、バージョンアップが必要である。ヴィーガンとは、そういうはなしだろうとわたしは思う。
よく注文するヴィーガン弁当。みんなに大好評です。これは台湾素食です。