きょう一日で何ができたか、それだけに集中している。それでいいんだ、と思う。
夜、眠りに就くとき、このまま朝になっても目が覚めなかったら、つまり、目を閉じていつのまにかグラデーションのようにあの世に召されたら、ということを、わたしは毎晩思う。それは、ネガティブなことでは全くなく、そのようなことになっても大丈夫なように、わたしは今日を生きることができたか、と問う作業をする。
会っておきたい人や、やっておきたかたこと、書き残しておきたかったことはないか、と自分に問う。そして、それらがないことを確認する。それは薄情なことではなく、なんというか、後悔のないほどちゃんとやった、ということであるとわたしは思う。
現代の闇と日々闘いながら生きるわたしには、もう夢も希望もないので、一日を全うすることだけを真剣に考えている。そして、きょう一日で何ができたか、それだけに集中している。それでいいんだ、と思う。
そして、今日が人生最後の日だとして、最後に会った人(というか猫)は、わたしの手のひらを枕にして眠っている、このちいさなあずきちゃんという猫で、それは最もふさわしい人物(というか猫)だ、とわたしは思い、安心して眠る。あずきちゃんは、ほんとうに小さいときに、わたしが保護した。なかなか大きくなれず、入退院を繰り返し、わたしは、小さくて弱弱しいあずきちゃんを胸に載せて、「わたしのなかにある、あずきちゃんにとって必要なものは全部あげますから、どうかこの子を元気にしてやってください。」と祈るように過ごした。そのおかげか、あずきは元気になり、ぴょんぴょん飛び回って、わたしの足をかじっている。
とはいえ、わたしがこの世からいなくなってもこの子(猫)が大丈夫なように、わたしが残した銀行預金とかが猫たちに行くようにしないといけないから、最近ともだちになった(地域猫つながりで)弁護士さんに相談したりしている。
しかし、というか、死ねないなとも思う。やはり、猫たちのお世話はとても大変なので、わたしがいなくなったら、みなさんは実際的にいろいろたいへんだろう。そういうケースはたくさんある。だから、やっぱりできれば死にたくない。今日も目が覚めてこうしてブログを書いていて、よかった。猫たちにごはんもあげた。よかった。
それと、わたしはヴィーガンだということで、もしなにかあったら口さがない人たちは「やっぱヴィーガンだから、いろいろ足りてなかったんじゃないの?」と言ったりするだろうし、それはなかまたちに対して非常に申し訳がなく、死んでも死にきれない。だから、なんとしてでもその事態は避けたい。
ということで、今日も目が覚めました。きょうは何を、しようかな。
わたしの足をかじろうとしているあずきちゃん。