震災から逃げてきて、体一つで大変だっただろう。ならば、命の大切さを、知っているならば、なぜ目の前の獣たちに対してあれほど非道な行いができるのだろう。
ちはるの森、に関しては、何年か前から何人かから相談を受けたり、話を聞いたりしていたが、そこまで真剣に考えていなかった。そういう人も、まあ出てくるだろう、くらいの感じだったし、それよりは、アパレル業界全体、食肉業界全体のほうを見ていたので、個人の狩猟者に対してはそこまで強くは思わなかった、というのがある。
それと、避難者であり、経済的にもたいへんだろう、というのもあったりして、一人の女性を批判することにためらいがあった、というのも事実だ。
しかし、わたしは何日か前サイトを見て、考えが変わった。なにかこちらからアクションを起こす必要がある、と思い、どうしようか考え、いや、わたしは物書きだから書くしかないじゃないか、と思うようになり、昨日、記事をupした。
あのふざけた文体、温暖な気候に必要のないリアルファーの大袈裟な帽子、悲しみ傷ついている多くの人々。それだけで、アクションには十分だろうと思った。
もし、わたしが農村で暮らし、現金を使わない生活を心がけたとしても、狩猟もと殺も肉食も、ましてやワークショップもやらない。こんどは出版までしようとしている。現金収入が必要なんだろう。ならば、もっと平和な、別の方法を思いつかないのだろうか。震災から逃げてきて、体一つで大変だっただろう。ならば、命の大切さを、知っているならば、なぜ目の前の獣たちに対してあれほど非道な行いができるのだろう。
そして少なからずショックなのは、支持者も多いことだった。肉食が彼ら彼女らの前提で、「殺さずに済む方法」「食べずに生きるという選択」など微塵もなかった。なぜ、そんなに発想が貧困なのだ?なぜ、そんなに人間のことしか考えないんだ?
そして、こういうことを嫌がる人は繊細で優しく、人に真っ向からモノを言ったり、自分がなんとなく考えていることをはっきり口に出したり、もめごとを避けたい、自分が傷ついた方が良い、と思うような人たちだ。だからうまく反論もされず、ここまで放置されてきたんだろうと思う。
わたしの出番じゃないか、と思った。わたしが書かなくて、誰が書くんだ、と思った。久しぶりに勇気が出てきた。
わたしは避難者の支援もしてきた。女性の自立も応援してきた。でも、こんな生き方をさせるわけにはいかない、と思った。黙っているわけにはいかないのだ。
あの人の生き方を変えることはわたしにはできない。でも、あの行為を黙って見ていることもわたしにはできない。そして、悲しんでいる人々を悲しませておくわけにもいかない。
やられっぱなし、というのは性に合わないのだ。