がんばり屋はがんばる。鳥が飛ぶように。魚が泳ぐように。猫が丸くなるように。
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」イダヒロユキさんのブログ「ソウルヨガ」
「がんばり屋」と呼ばれる人たちがいて、わたしもその一人だろうと思う。それがいいとか悪いとかえらいとかえらくないとかそういう話ではなく、まずそれを認識しようと思う。そこからはじめたい。
「がんばり屋」は、自分に対しても強烈にプレッシャーをかけるが、そのことで同時に他者にもプレッシャーをかけている。そういう存在である。だから、考えようによっては役に立つし、頼りにもなるが、迷惑でうっとおしい存在だとも言える。なので、わたしはそういうことをよく分かっているから、なるべくいろんな活動を一人でさくさくやってしまう習慣が付いてしまった。そうすれば、少なくとも、人に対して抑圧的にならず、目立たず一人地味に地道に黙々と自分の「しごと」に集中できるからである。
でも、そういうタイプの人間こそ、切実になかまが必要であり、対話を欲しており、その距離感、を大切にしていきたいと思っている。誰かの助けがとても大切だ。海辺のカフカのナカタさんにホシノちゃんがいたように。名探偵ホームズにワトソン君がいたように。ナカタさんは言う。「それをそろそろ誰かがやらなくてはならんということです。」ホシノちゃんは問う。「そしてそれはナカタさんなんだね。」ナカタさんは答える。「そのようであります。」しごと、というのはそういうものだ。ひっそりとしたものだ。どんなに大きな役割であったとしても。
たとえば、反原発であっても、わたしは山本太郎氏のように議員ではないし、三宅洋平氏のように影響力もない。でも、別にそんなに気にならない。というかぜんぜん気にならない。比べたってしかたないし、彼らだって、そう思っているはずだと思う。わたしにはわたしの持ち場があり、誰に認められなくてもすることがあり、それをやればいい、ということをわかっているから。たとえばミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる道路掃除婦ベッポじいさんのように、村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくるナカタさんのように、目の前の、自分の役割に集中して生きていれば、それでいいのだ、ということを。ベッポじいさんとナカタさんは、東西の対称形である。とてもよく似ている。そういうのって、あるんだよね。人間はどこに生まれたか、とかあんまり関係ない。詩人だったら高村光太郎とリルケがそうだ。コメディアンだったらロビン・ウィリアムスと桂枝雀がそうだ。
ああ、脱線してしまう。わたしの傾向。右の髪がどうしてもいつもくるんと跳ねるみたいに。
そうやって、自分自身であることを全うしている人、というのは見ていて気持ちがいいものだ。そのキャパやスピード、活動や仕事の内容は違っても、本質的にとても似ている。わたしが好きな元サッカー選手の中田英寿氏もそう。わたしはサッカーも下手だし、飛行機で世界中を飛び回ったりもしないけど、でも、きっと話があうと思う。そんな気がする。ポテトチップと赤ワインでマンガの話がしたい。あ、中田英寿氏もナカタさんだ。
自分自身である、ということはとても気持ちがいいものだ。無敵で素敵なことだ。わたしはそれを猫たちから毎日教わっている。自分自身であることを全うしている人は、他者を脅かすことはない。とても満足している人は、他者に対して、いろんな素敵なことを与えている。すべての猫たちがそうであるように。
けれども素敵な猫でないわたしは、せめてじぶん以外の存在のために、なにかせずにはおれずに、きょうもナチュラルにがんばっている。
がんばり屋はがんばる。鳥が飛ぶように。魚が泳ぐように。猫が丸くなるように。