ブログを書いたり、誰かに話して説明したり、そういう、いわば「訓練」のような「筋トレ」のようなものを、毎日こつこつやるしかないのだろう。
今週のお題「いま学んでみたいこと」動物の権利と、それを守るための法律など。
http://www.arcj.org/animals/sacrifice/00/id=659
いやだ、うるさい、かわいそうだ、下品だ、など、地元の反対派もずっと嫌がってきたこの祭りですが、それは感情論の域を出るものではなく、そのため、この祭りは「仕方ない」と温存させられてきたのだと思う。
たとえば、迷惑な人物や行為が身近にいる、ある、として「嫌だから出ていけ!」などと言えば、もっと大きな騒ぎになり、誰も耳を貸してくれませんが、「ここは禁煙スペースなので、たばこはあちらでお願いします。」とか「ここは路上駐車および、アイドリングが条例で違法となっていますので、ご移動願います。」という言い方をすれば、たいていの人は納得する。そうやって、物事を進めていかなければいけないのだ、とこのように良質な記事を読めばわかる。
最初に感情がある。皮膚的な嫌悪感がある。大人でもこどもの部分があり、嫌なものは嫌だと思う。しかし、それを「がまん」せずに、どうやって、改善し、よりよい環境に変えていけるか。それは、この言語化、というステップなのだろうと思う。
だから、やめてほしい、とまず、言うことはだいじ。それは基本だと思う。そして、それがなぜだめなのか、を説明していくために言葉を得、知識をつけていくことが、こちらがわに求められている。そうすることで、自分のなかでも、次はどうすればいいのかが、ものすごく明確になるから。こうしてブログを書いたり、誰かに話して説明したり、そういう、いわば「訓練」のような「筋トレ」のようなものを、毎日こつこつやるしかないのだろう。
それが生きる、ということなのかもしれない、と、涼しくなって、ふっと思った。