知恵蔵日記( ..)φ

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休みは休めばいいし、必要なものだけ、大切に使えばいい。

 服を買わずに、洗って、乾して、着る、というのをやっていて、すごくいい。ああ、買わなくてもなにも困らない。古いのを古いまま着ていていい。気にいっているのはずっと着ていていい。こんなあたりまえの感覚さえ、わたしたちは奪われてしまっている。わたしは一人っ子で、女性だから、親から着せ替え人形のように育てられた。作って与えられ、買い与えられ、同じ服ばかり着ていると嫌みを言われ、休んでいると買い物に連れて行かれた。もう、そんな目には遇わなくていい。休みは休めばいいし、必要なものだけ、大切に使えばいい。

 

 非暴力、という概念を掲げて運動に参加しているわたしとしては、「暴力」について考え抜く必要がある。自分のなかにある加害性をきっちり知る必要がある。自分と切り離しては、なにも深まっていかない。

 わたしはにんげんのこどもを持たない。それには非常にさまざまな理由があるのだが、そのひとつ、大きなひとつに「虐待してしまうだろう」というのがある。というか、しない、と言いきれない。責任が持てない。わたしが行う加害行為は、非常に複雑で抽象的で、精神的なものであり、加害者も被害者すらも気づかないかもしれない。専門家でも見破れないようなことをするかもしれない。そんな気がする。そこまでリアルに描けているのならば、きっとするんだろうと思う。

 たとえば、ドアには「ドア、扉、戸」などと書いて張り、それに英語、中国語、ロシア語なども併記し、単数・複数、格変化、用例、相性のいい自動詞・他動詞なども、書くだろう。そういうことをわたしはやりそうだ。「教育熱心」とか「外国語教育」とか、そういう域では済まないことをやるだろう。できたとしても誉めたりせず、次の課題を与えるだろう。わたしは自分自身が親だったら耐えられない。嫌だと思う。

 しかし、たとえば、ストリートチルドレンを養子に迎えるというのはどうだろうか。わたしのような人間でも、その子が助かるなら、「教育」を受けさせ、食べ物や衣類を与えることができる人間をその子が必要としているなら。その子が飢えや貧困から脱出することができ、その子がわたしを慕うのであれば、にんげんのこどもを持つこともあるのかもしれない。「国籍」の違う、肌の色の違うこどもを持つ、というのは、わたしのような人間にはいいのかもしれない。

 

 そういうことを思う。