知恵蔵日記( ..)φ

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属性で見なければ、仲間はどこにだっている。

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 人を属性で見ないようにする、ということをちゃんとやるようにしていて、もちろん難しい。差別の芽はどこにだって生えてくる。

 わたしにとっていちばん難しいのは、「○○さんの息子」という偏見を取り除くことかもしれない、とふと思った。女性で、庶民で、無名で、低賃金でずっとやってきたわたしにとっては、男性で、家柄がよく、有名で、暮らしに困らない、というか裕福、という世界は対極にあり、だからついつい偏見で見てしまう。ジョンを抜きにしてショーン・レノンを、茂夫を抜きにして長島一茂を、米朝を抜きにして五代目米團治を、一人の人としてまっさらな気持ちで、その音楽を、野球を、落語を、というのはけっこう難しい。

 身近にもけっこう「○○さんの息子」的な人はいた。わたしはこだわりなく接していたつもりだったけど、どうだろう、どうだったかな。そんななかの一人のことばをよく覚えている。「ちえさんは、そういうの好きじゃないだろうけど、ぼくは男だから医学部にしたんだよ。」本音なんだろうと思う。建て前ではもっと別のことを言っているだろう。

 今なら分かる。彼らだって人間扱いされたかったのだ。一人の人でありたいのだ。でも、周りがそうさせない。彼らの個性を摘み取ってしまうのだ。

 五代目米團治の落語を聴いているとき、ふと思った。この人は、たとえ米朝の息子でなくっても、きっといい落語家なんだろう、と。でもどうしても彼のネタは親子もの、若旦那ものが中心で、マクラもお父さん、つまり米朝師匠のものがほとんどだ。そしてそういうものほど好まれるので、世に出やすい。ほんとうは、もっと別の得意なジャンルがあったとしても。

 世襲、について考える。伝統、保守ということ。わたしとは対極の世界。往々にして伝統、保守は腐りやすく、だめになりやすい。意味がないばかりか、害のあるものも多い。でも、わたしはそんな世界のなかで、「いいもの」もたくさん見てきた。日本がいい、日本人がいいというのではない、「その人」の「その世界」がいいというものをたくさん見てきた。その人が素晴らしいのに、「日本」とか「伝統」にすり替えられてきた。悔しい思いをしていることだろう。あなたが素晴らしいんだ、とわたしは言いたい。仏教、落語、和食。いいものに国籍はない。日本人である必要はないが、日本人とか男とか長男とかそういうことに意味もなく重きがおかれる。

 わたしは女性で庶民で無名だから、生活すること、生きることに集中せざるを得なかった。そしてそれは苦しいけど、いいことでもあった。「もう生活に困らない」という立場に立つ者ほど、生き方が問われる。その「余剰」の部分をどう使うか。学問、芸術、音楽などの生活以外の部分を。そしてそれが家業であればなおさらだろう。それを背負って生きなければいけない。保守というのはどんなに重苦しいことか。

 わたしはずっとひとりが好きだった。家族旅行より一人旅が、会社勤めより自営業が、持家より賃貸が、持つことより持たないことが、ずっと好きだった。小さいころからそうだったと思う。親と外食したり旅行したりするのが好きではなかった。一人で、本を読んだり、ぬいぐるみや鳥と遊んだり、なにか文章を書いていた。そう、今と全く変わらない。そうやって生きて行くのだと思っていたし、それ以外を知らなかった。

 あるとき縁談を持ち込まれた。どっかの省庁の役人だったと思う。わたしは省庁の名前をどうしても覚えられない。脳みそが拒否してしまう。高学歴で、もう若くなくて、同郷である、というが「条件」だったらしい。そんな人はたくさんいるので、わたしである必要は全くない。でもまあ、生活は安定したろう。周りもほっとしただろう。「保守」であるということはそういうことだ。役人家系は役人が好きだ。でも、わたしはここで反抗しなければ、生きている意味などない、と反射的に思った。生まれてきたくなんかなかったが、でも生きている以上、生きるしかない。生きるとは反抗することだ。よくがんばった、わたし。あそこで反抗してなかったら、原発反対なんか、きっとやれてない。

 

  女性とか、無名とか、庶民とか、低賃金とかっていうのは非差別集団なんだろうけど、でもその集団ではなく「個」を生きるなら、限りなく身軽で自由だ。わたしはそういうことをよく知っている。闘えるのもこちら側にいるがこそだ。だから、わたしは闘えない命の分まで今日も闘うのだと思う。多くの人は、抵抗とか闘いとか、そういうことばを嫌がる。女性が言えばさらに嫌がる。でも、わたしは知っている。闘わないということは、生きることを放棄しているということを。保守の坊っちゃんたちでも、ちゃんと闘っている人はいる。属性で見なければ、仲間はどこにだっている。